出身地 | 北アフリカ・カルタゴ |
生没年 | 160年頃〜220年頃 |
主著 | 『護教論』『プラクセアス駁論』『マルキオン駁論』等多数 |
クイントゥス・セプティミウス・フロレンス・テルトゥリアヌス(Quintus Septimius Florens Tertullianus)は、2世紀の北アフリカ・カルタゴにおいて活動した神学者、護教家。ラテン語でキリスト教的著作を著したいわゆる「ラテン教父」では最初期に属する思想家で、ラテン神学の創始者的存在である。
生涯
北アフリカ・ローマ属州カルタゴにて、カルタゴに駐在するローマ軍の百人隊長の息子として生まれる(諸説あり)。その生涯の前半期について詳細はほとんど分からないが、修辞学や法学、文学や歴史などについて高度な教育を受け、法律家、弁護士として活動していたようで、その影響は彼の著作の中に遺憾なく発揮されている。当時の知識人の例に漏れずギリシア語にも精通しており、少なくともギリシア語で3冊の本を書いている。
キリスト教へ改宗した経緯は不明だが、法律家としてキリスト教徒への不当な裁判への義憤、殉教者への情景などの要因が考えられる。司祭であったともされる(ヒエロニュムス『著名者列伝 53章』)が、彼の著作からは直接的に司祭であったことを伺わせる記述はない。妻帯して(『妻へ』)子どももいたようである(『魂について』)。
カルタゴのカトリック教会の指導的立場にあったと思われるが、その激しい気質と厳格主義、罪の悔い改めに関する当時のカトリック教会の対応の生ぬるさから、晩年にはモンタヌス派へ転向。モンタヌス主義に則った著作を著し、カトリック教会への批判を開始する。最晩年にはモンタヌス派とも袂を分かったようで、彼独自のテルトゥリアヌス派を形成している。この派閥はアウグスティヌスの時代まで存続していたようである。
正確な没年は不明だが、ヒエロニュムスの『著名者列伝』によると、かなりの老年まで健在だった模様。
著作
『護教論』
197年頃にカルタゴのローマ政府指導者層へ向けて書かれた、テルトゥリアヌスの代表作。
キリスト教徒への不当な裁判や、民衆の間に当時流布していた根拠のない中傷に対して鋭く反論し、さらには異教の偶像崇拝や皇帝崇拝に対して激しく攻撃を加える。